演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫
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それを追いかけ続けている

__ 
今日はどうぞ、よろしくお願いします。shelfの矢野さんにお話を伺います。最近、矢野さんはどんな感じでしょうか。
矢野 
公私ともにとても充実してますね。何というか、遣りがいのある仕事を持って、それを今、まっすぐに追いかけています。追われるというより、追いかけ続けている、という感じが楽しいです。
__ 
なるほど。
矢野 
今年の9月に開催される国際イプセンフェスティバルに正式に招聘され、shelfの初の海外公演が決まったから、というのもあるんだとは思いますけど、最近、それほど人の評価が気にならなくなってきたというか。
shelf

"shelf"はbook shelf(本棚)の意。沢山のテキストが堆積・混在する書架をモチーフに活動を展開。俳優の「語り」に力点をおきつつ、古典、近代戯曲を主な題材として舞台作品を制作し続けている。演劇や舞台芸術一般を、すべて個人とコミュニティとの接点で起こる事象(コミュニケーション)であり、と同時にそのコミュニケーションの様態を追求し、関わり方を検証し続けてきたメディアであると考えて活動を展開。主な活動の拠点は東京と名古屋。所属俳優 3名。(2014年2月現在)2008年8月『Little Eyolf ―ちいさなエイヨルフ―』(作/ヘンリック・イプセン )利賀公演にて、所属俳優の川渕優子が、利賀演劇人コンクール2008<最優秀演劇人賞>を受賞。同年、同作品名古屋公演(会場・七ツ寺共同スタジオ)にて<名古屋市民芸術祭2008<審査委員特別賞>受賞。2011年10月、『構成・イプセン― Composition / Ibsen(『幽霊』より)』(会場:七ツ寺共同スタジオ)にて、名古屋市民芸術祭2011<名古屋市民芸術祭賞>受賞。(公式サイトより)

KYOTO EXPERIMENT オープンエントリー作品 - Theatre Company shelf『shelf volume 18 [deprived]

矢野 
今度京都に持ってくる作品というのが[deprived]というタイトルで、東京では(仮)とタイトルにつけて4月に上演したんですが、20人しか入らないギャラリーで、一週間ほど上演したんですね。音響や照明効果に頼らず、同じ空間で、観客と空間を共有して、物語を物語るという作品です。一度徹底的に、演劇に付随する様々な要素を削り落として俳優の“語り”の力だけを使った作品を作りたくて。
__ 
東京で上演して、いかがでしたか。
矢野 
今回の[deprived]に限らず、僕たちは基本的に、都度、再演に耐え得る強い作品を作るんだ、という気持ちが強くあります。僕は専業の演出家なので、基本的にテキストは他の誰かが書いたものを使う、というやり方を取っています。セットなども極力作らず、音響も薄く、観客の無意識を支えるように入れるか、あるいは最近はもう音響は無くてもいいかな、という感じで。だいたい装置を建て込む、という感覚からはもう10年ぐらい離れていますね。ただ、再演に耐え得る、といってもそれは同じものを正確に再現できるようにする、ということではなくて、つまりどこに持っていっても同じように上演できるパッケージ化された閉じた作品ではない。環境、つまり劇場という建築物の歴史や場所性、ロケーションなど大きな要素まで含めて、それらを含みこんで、その都度ちょっとずつ作り替えて、稽古場で出来るだけ柔らかく且つしなやかなものを作って、それを現場で毎回、アジャストしてから上演するという感じで。俳優には、まあ相当な負担がかかるんですけど、そういう風に劇場というか<場>の魅力を引き出した方が舞台芸術としてもっとずっと楽しいんじゃないかと。お金が掛からない、というのもありますけどね。でも、貧乏ったらしくはしたくなくて。
__ 
そうした上演形態が、shelfのスタイルですね。
矢野 
貧乏ったらしくしたくない、というのはこちらの気構えの問題でもあって、経費をケチってコンパクトにするというよりか、稽古場で相当な時間をかけ、試行錯誤しながら練り込んで来たものを1ステージ20人しか見られないような空間で上演する。それってむしろ、凄く贅沢なことなんじゃないだろうか、と。もちろんそこには懸念もあって、1ステージ20人だと、変な話客席が全て知り合いで埋まってしまうかもしれない。でもそれは何とかして避けよう。出来るだけ当日券を用意するとか、常連客しか入れないような一見さんお断りの飲食店のような雰囲気じゃなくて、誰でも入れるような、そんなオープンな空間を作ろうと。そのように、どうやって自分たちの存在や場所そのものを社会に対して開いていくか? ということについては、これからももっともっと考えていかないといけないと思っています。ただ先にも言ったように、自分たちのやりたいこと、課題、やるべきことが見えて来ているという意味では今は本当にとても充実した毎日を送っています。
__ 
課題が見えるという事は、少なからず問題に直面していた?
矢野 
将来的に考えて、何というか、テレビの仕事や、演劇、コミュニケーション教育など教える仕事、レッスンプロっていうんですかね、そういう二次的な仕事でなくちゃんとしたアーティストが、純粋に演劇作品を作ることでそれで対価が支払われるような社会になっていかないと、それはちょっと社会として余裕がないというか、貧しい社会なんじゃないかな、と思うんです。例えば俳優や、スタッフにしても例えば子どもを育てながらも演劇活動が出来るような、そんな世界になっていってほしいんです。まあ、そもそも演劇制作って、ビジネスとしてはすごく成り立ちにくいものなんですけどね。資本主義の、市場原理の中では回っていかない。だけど、や、だからこそ一人一人がただ良い作品を作ればいい、作り続けていれば、というのは違うと思ってて、それはそれでちょっと独りよがりな発想だと思うのです。で、だからそういうところから早く脱して、演劇に関わる一人一人が将来についてのそれぞれ明確なビジョンを持って、これからはそれぞれが一芸術家として文化政策などにも積極的にコミットしていかなければならないと思います。じっくりと作品作りをしている僕らのような存在が、ファストフードのように消費されるんじゃなくて、きちんと評価される。社会のなかに位置づけられる。国家百年の計、じゃないですけど、二年とか三年とかそんな目先の利益じゃない、大局的なビジョンを持って、演出家とか、劇団の代表者という者は活動をしていかなきゃいけない。そんなことをずっと考えていて、いろいろと、作品作りだけじゃなく制作的な面でも試行錯誤をしています。

衝動

__ 
さて、KEXのオープンエントリー参加作品[deprived]。見所を教えて頂けますでしょうか。
矢野 
俳優の身体そのものを、先ずは観て頂きたいです。俳優が言葉を発語する。発語という行為を行うために、その行為を際立たせるために本当にいろいろなものを削ぎ落としているので、そこを観て欲しい。どちらかというと僕らの作っているものは派手で豪華なエンターテインメントではなく、儀式的、様式的というか・・・例えば、歌舞伎ではなくて能楽に近いような、そんなものなんですね。俳優がテキストを発するとき、おそらくそれは目に見えるようなものじゃないんですけど、けっこうな苦労をしていて・・・僕らの作品に限らないと思うんですけど、古典や近代文学のようなテキストを、普通に、何事もなく聞けてしまうようにするのって、けっこう難しいんですよ。誰が何故、何を、何のために喋るのか? について、俳優がちゃんと自分のなかに衝動のようなものを持ってないとすぐ、言葉が上滑りするというか、スカスカになってしまうんです。
__ 
まずは俳優の発語に注目すると、shelfの作品の成立する瞬間が感じられる?
矢野 
いうなれば、西洋的な足し算で見せていくフラワーアレンジメントではなく、余白、間を見せるための生花ですね。ギリギリまで削った、言葉と、身体と、空間。そして何より余白を大事にした作品を作っています。これは余談なんですが、最近いろいろ英語で企画書を書いていて苦労したというか気づかされたんですが、英語では日本語の「削ぎ落とす」って、あまり良い意味を持っていないんですよ。trim outとかかな、とか、いろいろ考えたんですけど、trim outだと確かにクローズアップはしているんですけど、それはあくまで部分に集中させることを念頭に置いた表現なんですよね。僕らは逆に、削ぎ落とした、削がれた方の余白の美しさや、お客さんの想像力を喚起するための間、何もない空間じゃなくて、無いものが在る、内に深く混沌さを孕んだ豊かな空間を作るのだということを最優先に狙っています。とにかく古典をやるにしても、今回のような構成作品を上演するにしても、それを大事にしていますね。

パブリック(public)

矢野 
[deprived]のテキストには日本国憲法前文があるんですが、この作品を作り始めてから時局になんだか追いつかれて来てしまっている感があるんです。憲法を閣議決定だけで強行採決してしまったりとか・・・。そもそも、これは今回の作品のタイトルの所以なのですが、「プライベート(private)」の語源には「奪われている(deprived)状態」というのがあるらしいんですね。人間は元々「パブリック(public)」な存在として、社会において「役割(role)」や「地位(status/office)」を持っているのが大前提で、それが奪われているのが「private」。それが僕にはなんだかとても興味深かったんです。「プライベート(private)」より先に「パブリック(public)」が来るなんて。僕らの感覚ではまず「プライベート(private)」な私があって、それから社会に参加するという感覚がある。
__ 
確かにそうですね。
矢野 
ここ20〜30年、公共とは何か? ということを問いなおす議論が日本でもたくさんなされて来ているように思います。だけど公共、つまり「パブリック(public)」を、本当のところは実は何も分かっていないんじゃないか? 明治時代に、外来語の概念に日本語を当てはめるために苦労した(「nature→自然」とか「love→愛」)のと同じような感覚で、ちゃんと「パブリック(public)」を理解して使わないといけないんじゃないかと。新しい公共とは何か。それは税金を集めて政府が管理・運営する、そのやり方を変えるというだけのことじゃなくて、例えばみんなのモノを、先ずは民間で作る。組織や施設を民間で立ち上げていって、それを行政がサポートするということでもいいんじゃないか思うんです。
__ 
[deprived]は、私と私を取り囲むそれらを考える時間なのですね。
矢野 
「私」とは何ぞや、という事を考えるときに、「私」を規定しているのは「私」ではなくて、「家族」とか「社会」、「集団」とか「国家」とか、様々な位相での「他者」との関わりの中で規定されているのではないか? ということをやりたいですね。

観客の呼吸を掴む

__ 
実は昔、shelfの作品を拝見した事があります。2009年のC.T.T京都でした。
矢野 
あ、そうなんですか。
__ 
「私たち死んだものが目覚めたら」のワーク・イン・プログレス作品でした。俳優が観客と向き合い、逃げない。そういう非常に緊張感のある作品だったと思います。一体、どのような経緯でそのような姿勢に辿り着いたのでしょうか。
矢野 
小説のような文字表現や、同じハコ型の(芸術)鑑賞施設である美術館や博物館と違う最大の点は、二人以上の多人数がいて、見る人と見られる人があって、そして一定時間をそこで過ごすということなのだと思うのです。であれば、そのことの何がいちばん面白いのかな、と。昔、札幌で学生していた頃、「キューブ」という映画をミニシアターで見たんです。お客さんは少なくって満員で50人ぐらい。みんな固唾を飲んで見ているんですが、それが、つまり呼吸とか皮膚感覚とかを共有する感じが凄く面白くて。緊張を強いられるシーンでは、皆が皆、息を潜めて。劇場って、そういうモノだと思うんです。
__ 
人が集まって、固唾を飲んでいる場所。
矢野 
だから僕はよく俳優に「先ず、観客の呼吸を支配してくれ」と言うんです。それは何も緊張感のあるシーンに限った話でなくて、例えば観客がどっと笑う。そのときに起こっていることというのは観客が全員、笑う直前に同時に息を吸っている間があるんですよ。そして同じタイミングで笑う=息を吐いている。客席で笑いがうねるということはそういうことなんでしょうね。大きな劇場でお客さんが一人しかいない、その状態は果たして面白いのか? 花火会場に行って、一人で花火を見たら楽しいのか? <場>を共有することで人と人との間で生まれる何かが劇場には、ある。それを最大限に引き出したいというのはありますね。だから、芝居の幕開けなんかでも俳優がまず最初の台詞を喋る、その発語のタイミングは基本的に俳優に任せているんですね、今は。昔は秒数で切ってたりもしたんですけど。
__ 
・・・。
矢野 
基本的に観客は、楽しもうとして劇場に来てくれている。だから、一番最初の時間が一番期待が膨らんでいる筈だと。その会場の全員の期待感や想像力がいい按配になったときにスッと言葉を差し出したら、きちんとそこから交流が始まるんじゃないかと思う。発語のタイミングが早過ぎるとお客さんが着いていけなくて戸惑っちゃうし、遅すぎると「まだ?」ってなってしまう。そのキワを攻めたいんですね。だから、その為の、<場>の呼吸を把握するための稽古を相当しています。今度ノルウェーに行くイプセンの「幽霊」、初演は2006年なんですけど、主演の川渕優子の冒頭のセリフが戯曲のト書きなんです。「イプセン 幽霊 三幕の家庭劇。」その発語の「イ」の稽古に2週間近く掛けた事があります。「違う」と言い続けて、周りの俳優が呆れちゃって。「こだわりたいところなのは分かるけど、取り敢えずちょっと先に進めてみようよ」って。当時の僕は、まだ今のような言葉も技術もなかったし、だから何が違うのかきちんと説明出来なかったんですけど、それでもそれは違う、と思ってたんですね。余談ですが、芝居を見に行くとだいたい最初の5分程度で、その芝居が面白いかどうかって分かるんですよ。うーん・・・と思ったのが、後から面白くなる事は殆どないんですよ。
__ 
観客の最初の印象って物凄く正確ですからね。開幕直後の観客の視線は、事件を出来るだけ早く理解するために、必然的に膨大な情報を取り込み、全く意識せずとも細かい部分を評定し、価値を判断しています。疲れも先入観もない、暗転の一瞬だけだけど社会と隔絶してコンテキストから切り離されるし、新しい世界を見るという立場上第六感も備えているんですよね。
矢野 
演出家的には、お客さんが一番期待してくれている瞬間に、期待に沿って、あるいはそれを裏切って、という心のやり取りで相手の心を掴まなければ、後はみんなだいたい引いていくだけなんですよね。
__ 
心を掴む。そこが今日一番話したかったことです。

難しい問題

__ 
shelfは、自分たちの尺度を自分たちで作るカンパニーだと私は思っています。そこで伺いたいのですが、その尺度を共有出来ない鑑賞者に、どのような近づき方をしてもらいたいですか?
矢野 
ああ、難しい問題ですね・・・。
__ 
受け付けないお客さんもそれは当然いると思うんですよ。
矢野 
そういうお客さんがいたとして、周りのお客さんに悪い影響を及ぼすような、例えば明らかに邪魔をするように貧乏ゆすりを始めたりガサガサとノイズを立てたりとか、そういう場合は、僕、ひょっとして芝居を途中で止めてもいいのかも知れないな、って思っています。「すみません、お代は結構ですので、あれでしたら今日はもうお帰り頂いても・・・」って。でもそれはちょっと、なんというか、“晒す”ことになっちゃう危険を孕んでいるのかなとも思ってて、それじゃ、ちょっと駄目かなあと。
__ 
そうですね。
矢野 
ああ、そうか。むしろそこで、対話が始まるべきなのかもしれない。要望を聞いたりとか。俳優にとってはいい迷惑でしょうけど。
__ 
最近、同じ状況に置かれたことがあります。まあイベント公演ではあるんですけど立派に演劇なんですよ。でも、一人お客さんが喋り初めてしまったんですよ。俳優にずっと話しかけたり芝居にツッコミを入れたり。私も含め周囲のお客さんは全員イライラしているようでした。ちなみに、俳優はノッてました。
矢野 
なるほど。
__ 
その劇団のテーゼ的には、彼のような存在を排除するのはおかしい。だから、そこでの正解はきっと、彼を排除するのではなく、その場の全ての観客が彼と同じように芝居にツッコミを入れ始めることだったんです。
矢野 
実は、劇場で演劇作品が始まった後に、所謂作り手(俳優)と観客とを分けるのって、ナンセンスなことなんじゃないかな、と最近、感じています。決して欧米の文化を礼賛するワケではないんですけど、平田オリザさんが雑誌「演劇人」に演出家コンクールの講評でこんなことを書いていたことを覚えています。「日本の観客は優しい。つまらなくても必ず最後まで観て、カーテンコールには拍手してくれる。ただし、その後二度と劇場には来ない」。あるいは、これは五反田団の前田司郎さんが言ってたのかな、「例えばあるラーメン屋に行って不味かったら、『このラーメン屋はまずい』ということになる。でもちょっと具体名は忘れちゃったんで適当ですが、例えば日本でマイナーな料理として、例えばモンゴル料理とかの店にいって不味かったら、『モンゴル料理はまずい』となってしまう」。現代演劇は、日本の社会のなかできちんと、なんというか身の置き所みたいなものを獲得出来ていないから、最初に見た演劇がつまらなかったら、そういうことになってしまう。ホントは1本だけでなくいろいろ観てみて欲しいんですけどね。それが、一方のヨーロッパの観客は、つまんないと途中で本当に帰っちゃうらしい。
__ 
ああ、そうらしいですね。
矢野 
最近、クロード・レジが死と沈黙についての作品を上演した時、途中で帰ったお客さんについて俳優にこういったことがあるそうなんです。「死を直視する事を恐れるように帰っていった。」
__ 
その舞台を直視出来ない観客と、どう向き合うべきなのか? が問題です。
矢野 
もちろん、排除するのは違う。観客も、演者も含めて全員での対話が始まるのがいちばん良い気がします。それでみんなが納得出来て、必要であればそこから上演を再開するのがいちばん幸せなんだと思います。
__ 
そうですね。それは理想ですね。
矢野 
自分とは違う価値観(を持った人)の存在を肯定するのが、きっと演劇のスタート地点なんだと思います。感じ方も考え方も違う人々が、それを前提にして、一緒に社会を営んでいくための具体的な仮説を立て、実践し、結果を検証し、という実験を行うのが、劇場という場所の本質なんじゃないか。最悪のケースとして、対話が長引いて上演が再開出来ず、そのまま公演が終わってしまってもそれはそれでいいのかも知れない。
__ 
連帯感というのかな、そういう状態に劇場が統一するのかな。社会のミニチュア。
矢野 
ミニチュアというか、個人と社会の関わり方についての実験をする、その可能性を探る場所なのかも知れません。ヨーロッパが生み出した資本主義や民主主義を、現状、我々はそれがいちばん優れたものとして受け入れている。けれど、世界を経巡ってみれば他にもっと良い選択肢があるのかも知れない。未来に賭けてみれば、他の選択肢がきっとあるんじゃないだろうか。僕は、僕らの作っている演劇って、そういうものなのだと考えています。

質問 山西 竜矢さんから 矢野 靖人さんへ

__ 
前回インタビューさせて頂いた、劇団子供鉅人の山西竜矢さんから、です。「矢野さんが、いちばん楽しい時はいつですか?」
矢野 
時々の状況で異なるとは思うんですけど、多分、思ってもみなかった、想定外の出来事に出会ったのにも関わらず、そうなんだよな、そういうことなんだよ。って、納得させられる瞬間ですね。言ってしまえばそれまでの自分の価値観がそこで一度壊されるんですけど、納得させられるというよりか、それだよそれ、俺が言いたかったことはそれなんだよ! って。

投げ返してほしい

__ 
観客にどう思ってもらいたいですか?
矢野 
面白かったとか感動したとかじゃなくて・・・なんというか、例えば終わってから話をしに来てほしいです。ボールは投げているので、投げ返してほしい、という感じですかね。僕をつかまえるか、それが自分の直接には知らない俳優であってもぜひ、話しかけてみてほしいです。

精神性

__ 
いつか、どんな演劇を作りたいですか?
矢野 
これはある現代美術作家の受け売りなんですけど、「子供が見て喜んで、且つ同時に批評家が唸ってしまう。」そんな作品。もっと欲をいえば、海外に上演に行ったときに、字幕なしでも分かるような、そんな面白い作品を作りたいですね。それはノンバーバルな、身体表現をやるという訳じゃなくて、発語された言葉と、発語という行為をせざるを得ない人間の身体と、人間の身体そのものや関係性の変化、あるいはそれら全部の相互作用でもって、観客の想像力をあらん限り喚起する。そんな作品を作りたいです。
__ 
それはきっと、お客さんとの間に濃いコミュニケーションを生むのでしょうね。私が昨日見た作品もそうでした。まあ、一見退屈なので眠っているお客さんが大半でしたが。
矢野 
パッケージ化された商品を受け取ることに慣れすぎてしまっているお客さんは、どうしてもより強い刺激を求めてしまうと思うんです。お出汁をちゃんと取った日本料理と、お吸い物のもとの違い。どっちもどっちで、それはあってもいいんですけど、日本人はもともと持ってたと思うんですよ、野趣そのままの素材の味を、奥の方まで理解しようとする心を。つまり、楽しませてもらうのではなく、自分から楽しみに行くという精神性を。

とにかくいろんな所に行って

__ 
これから演劇を始めようと思っている人に何か一言。
矢野 
始めたらいいと思います。始めてみたら分かると思います。始めたら始まるんです(笑う)。
__ 
今後、どんな感じで攻めていかれますか?
矢野 
カンパニーの代表とか演出家とか、自分のキャリアという話でいったら、ちょっと難しくてよく分からない、というのが正直なところなんですが、とにかくいろんな所に行って、いろんな価値観の人に出会いたいです。ただ、それがいつまでも身銭を切って、という遣り方だと正直しんどし続けていけないと思うので、そういうのが出来る環境をどう獲得していくか。つまり、遣りたいことを続けていくために、遣りたいことをやりながら同時にどのようにして自分(たち)の仕事をプロデュースしていくか・・・それはまたクリエイションとは別の力量が問われるので、もっといろいろ貪欲に試して行きたいと思っています。

香彩堂のお香

__ 
今日はですね、お話を伺えたお礼にプレゼントを持って参りました。
矢野 
ありがとうございます。拝見して良いですか?
__ 
もちろんです。
矢野 
いい香りがする。(開ける)お香、好きなんですよ。
__ 
香彩堂のお香です。素朴で奥行きのあるものを選びました。
(インタビュー終了)