演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫

山崎 恭子

演出家

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山崎 
公演が終わって、一日ぐらい何もしないで過ごそうと思ってたんですけどムリでしたね。ダメですね。ウルフの本が新しく届いたので読んでたり。
__ 
それ以外は、どんな日々ですか?
山崎 
何だろう、何してたかな。部屋の掃除をめっちゃしてました。衣替えをしようとしたら、こんな服持ってたかな、でも確かにこんな服あったわ、みたいなのが出てきて・・・。面白いですよ。毎日着ていた服なのに忘れてるという、この無頓着さ。
__ 
突き放した言い方になりますけど、過去を忘れて前に進めてるんじゃないですか。
山崎 
めっちゃ良く言ったらそっすね。でも真実の所在は物忘れが激しいということだと思います。
居留守

言葉と身体の距離を“いま・ここ”を支点に測ることで重層的な空間を作り上げている。主な作品に、小説家・詩人の多和田葉子の小説をコラージュした『わたしのいるところだけないもない。』同じく多和田葉子の小説を下敷きにした『アルファベットの傷口』、マルグリット・デュラスの『アガタ』とデッサンの教則本『デッサンの眼とことば』コラージュした『あなたよりも、あなたとわたしと一つにしても。』、ガルシア・ロルカの『ベルナルダ・アルバの家』を使用した『べルナルダ家』がある。2016年よりアトリエ劇研想像サポートカンパニー。

居留守「運良く陸地を見つけ、上陸する際の注意点。」

__ 
居留守「運良く陸地を見つけ、上陸する際の注意点。」面白かったです。この作品を作るにあたって、どんな事がとっかかりになりましたか?
山崎 
テキストは自分では書かないのでまず何を素材に選ぶのかから入るのですが。稽古始める前にいくつかの候補があってその中にウルフの「灯台へ」もありました。一つの文章に複数の声が入り乱れている状態、これなら出来そうだと思ったんです。できるってのはなんの確信もなく思ったことなんですが、多分その多声性に演劇的なものを感じたんだと思います。で始め読んで思ったのが、主観カメラで世界を撮影している状態のひとたち、みたいなイメージを持った、なのでライヴカメラを使いました。
__ 
終わりのあるような物語ではない、抽象性の度合いの高い構成の演劇作品。その中で、言葉はどのように存在しましたか?言葉は一つだけでは存在出来ない。不連続体としての言葉は存在するだろうか。
山崎 
言葉を語る時に、身体を引き合いに出すのが私はやりやすいのでキーワードとして出すんですが、たとえば「波」はわかりやすい空間や時間設定がなくて、言うなれば人の脳味噌だけがスペースとしてあるんです。この小説には「部屋」という言葉が頻出するんですが、それが「脳の中」だと私には思えたんです。脳みそも体ですが、脳みそというか脳内で精製されるヴィジョンが登場人物の住処な感じで、それはフィジカルではないといってもいいと思う。
__ 
脳の中。
山崎 
脳の中つまりイメージやヴィジョンをどうしたら身体をもっている俳優が発語できるのか、ウルフの言葉のどうしても身体にまとう事が出来なさみたいなのをクリエイション中すごく感じていて。でも、居留守はそこを面白がっているんじゃないか。ただ、それらが分離している状況をずっと観続けるのは厳しいし、それだけを見たいという訳でもないな、と思っていて。一瞬、まとえている状態を見る時に快感を覚えるんです。ウルフの言葉とそれが俳優の身体がどんな距離感を持つか、に興味があるんですね。
__ 
身体と言葉との乖離に興味があるんですね?
山崎 
多分、言葉は元々自分のものではないという感覚があるんです。今は日本語で考えてるし喋ってるけど、スペインに生まれたらスペイン語を喋っとるよ、と。それが出発点になってるのかなと自分では思います。よく思い出すのが出身が雪国なので冬にものすごく雪が降るんです、そうすると雪が音を吸収して本当に静寂が降りてくるような状態になる、私アホな子供だったんで雪が積もってる中外に出て誰もいないな畑とかで遊んでたんですけど、当然時間が経つにつれて体が冷えてくる、本当に寒いと“寒い”じゃなくて“痛い”になってくるんです、そうやってその感覚を言葉で追っているとだんだん体が冷えて自由が利かなくなって体がただのモノになる、感覚を捉えていたはずの言葉が漂白されて身体が漂流する、自分のモノなのに自分のモノじゃない、それは誰かの言葉を借りると、モノと非モノ、客体でありしかし内面を持った客体、とを行き来する状態になるんです、ちょっと言語化しにくいですが、それが体と言葉の関係について考えるときに実感としてもてる言葉と感覚です。それの経験を通して言葉と身体を理解しようとしている感じはします。
__ 
言葉と身体が接岸する瞬間と、全く離れている状態。この二つの状態の隔たりは凄いですね。でも、接岸する時は訪れる。
山崎 
そうですね、多分接岸する条件として「人が見ている」という要素が確実に存在していて、それは眼差しの要求に答えているんだろうなと思います。彼岸と此岸にあるものが出会ってしまう瞬間、それは決して俳優による役の人格や感情の演技というコンテキストに依ったものではなく、演出として「そう見えてしまっている状態」を作りたいと思っているのじゃないかと思います。
居留守「運良く陸地を見つけ、上陸する際の注意点。」

公演時期:2016/9/23~25/31。会場:人間座スタジオ。

役柄の意義をどこにおくべきか

__ 
前回インタビューさせていただいた大原研二さんと、役作りについて話したんですよ。役作りはやっぱり、言葉をセリフとして発する為の積み重ねで、そこには様々なアプローチがある、と。その人物の価値観がつまりその人の生き方ですから。山崎さんは、そういうアプローチではなく、演出として、身体と言葉の重なる瞬間を作ろうとしている?
山崎 
役作りというのは、もしかしたら必要なのかもしれない、でも、役作りとかその役の背景の重要性は、その一人のひとを取り巻く空間がどうなのか、に思えるんですよ。内面がどうであるというよりも、その人がそうなってしまう環境の方が私にとっては重要なんですね。その空間ってのはアクティングエリアなんですけど、そこで人物の状況が可視化されている状態の方が面白いと思うんです。だから、内面にはこだわらないですね。でも、ちょっと話の流れが変わってしまうかもしれませんが、12月に再演っというかウルフのテクストを使ってまた作品を作ろうと思っていて、今その稽古をしていいるのですが、その作品の中心のテクストに9月にも使った『波』を中心に置こうと思っています、このテクストはどうしょうもなく読み手の個人的経験を要求してくる。ものすごく断片的で、断片的だからこそそこに余白ができて、その余白を埋めるために読者の経験のようなモノを要求してくる、その経験にウルフの言葉が再びフレームを与えて、読み手の内面をえぐってくる、それとをどう空間に落とし込んでいくのかにかなり苦戦しています。

そして聞き手はどう存在しているべきだったのか

__ 
「運良く」を拝見していたとき、私は4回から6回寝ました。原因は何故かを考えたんですが、それはもしかしたら、役者が他の役者の言葉を聞いていない、と感じたからじゃないかと思うんです。会話劇において、観客は、喋っている役者の方を観ながら、白目で、もう一人の役者の方を観ている。聞いている役者と自然に同調しているに違いないんですよ。居留守の場合は、やり取りが無かった為に情報の流れを掴めずに意識が付いていかなかったのではないかと思う。
山崎 
いま言われて気づいた事ですけど、喋るという行為は聞くという行為がなければ成り立たない、その聞き手は“あなた”であっても“わたし”自身であってもいいのだけど。聞き手がいないと喋れないというところはあって。でもその状態が、カメラで撮られてしまっているシーンときっとリンクするだろうなと。
__ 
なるほど。
山崎 
それと、ブレイクがない、というのは、お客さんには言われました。ずっと緊張しっぱなしで。

断絶

__ 
そしてもちろん、居留守の追求している「テキストと身体の断絶」には可能性がある。役者がセリフを喋っていながら、そのそばから身体と言葉がどんどん断絶していっている。その面白さは確固としていました。
山崎 
言葉を強く意識しながらもそれをどんどん遠ざけている、遠ざかっている感じ。言葉に溺れるという感想も貰ったんです。もちろん全て伝わるとは思っていなくて、重要なキーワードだけ伝わればいいとは思っているんですけどね。演劇枠組みの中でも重箱の隅をつつくみたいな作品はどこまで許容されるんだろう。「芸術家は芸術家らしく自分の道を行ったらいいんだよ」というのはおこがましいというか、一人でやってろよ、と思われるのかもしれない。ではどうやって、アプローチというか、橋を作るべきなのか。
__ 
私としては作品自体に構成を設けて、分かりやすく見せた方が理解されやすいと思いますけどね。でもそうするとまた一つのストーリーになっちゃいますけどね。
山崎 
美しい宗教画の、グリッジというか、原型を止めない感じの平面作品が凄く好きなんですけど、それは原型を知っているから分かるんですよ。それこそ破壊のみでいくのか、原型を見せて破壊を始めるのか、全然違うんですよ。例えばロミオという役柄がいて、それがどう破壊されてしまうのかを見せるのがお客さんには親切だとは私も分かってるんです。けど、ホンマにそれをするのか?と考えると、別にそれはええんちゃう、と。ワガママさというか、大人になれないというか・・・。
__ 
観客も、タイプによっては、破壊される様を観たいと願っている人もいるでしょうね。そういう人は個人の事情を客席に求めがちでしょうね。芸術を求める人にこそ要求される舞台なら、そういう方たちへもっと訴求すべきなんじゃないか?
山崎 
全員に分かるエンターテイメントを作っている訳ではない。なら、自分が思っていることを誠実さを持って突き通すのが、当たり前ですけど必要ですよね。脱線しますけど、共感して泣くって面白いなと思う。誰かに起こったストーリーに泣くというのは、「自分は一人ではないんだ」という再確認をしているのではないか?と思って。共有する事で確認する、それは悪い事ではないし物語の持つ力だと思うんですけど、そういう人に「いやいやあなたはやっぱり一人だよ」と確認させたい気持ちもある。あなたは一人だから泣いている、のだと言いたい。
__ 
一人に立ち返る瞬間。
山崎 
なんていうか、例えば舞台上に家庭用の扇風機が置かれていて、その風でレースのカーテンが機械的に揺れている、カーテンが風に揺れるってロマンチックというか感傷的なイメージなんですけど、たとえばそれにちょっとセンチメンタルなセリフがあって涙がでるとする、つまり感動するとする、でも、それは作られた感動で仕組まれたものだからそんな安っぽいものに心を動かされていることを嘲笑ってやりたい、っと一方で思いながらもその感動自体をわたしはとても大切なことだと思う。独りよがりな自己満足の世界を嘲笑ってやりたい、でも同時にもしかしたら独りよがりな自己満足はとても柔らかくてはづかしいもの、そのはづかしさってもしかしたら重要なのではないかと思う。先と言っていること食い違っているかもしれませんが、でも多分一つのことを言いたいのだと思う。

演劇に触れた瞬間

__ 
演劇を始めたのはいつからですか?
山崎 
小学校3年の頃です。母が演劇好きで、進められて。大阪の知り合いがやってるから、そこに行こうと。演劇というよりも都会に憧れて、みたいな感じです。でも結局演劇じゃなくてバレエとかジャズとかコンテンポラリーとかのダンスを中心に習い始める。でも、父が彫刻家で、その影響もあって高校まで画家になりたかった。小さい頃の夢はゴッホでした、でもあの人おかしくなって死ぬじゃないですか、ちょっとそれは勘弁願いたいなっと思ってた。画家みたいに一人で黙々と自分と向き合うみたいなものに強い憧れは今でもあります、でも一人でやってたら死んでしまう人種もいるから、私じゃない別の誰かと作品を作った方がなんかたのしそうだな、と、ってか一人でキャンバスにむかってるとなんか嫌になってくるんですよ、刺激がないから。でも演劇を始めたのは大学3回生からです。入学してから3回生の冬まではダンスをしてました。踊るのも好きです。身体は見ていて飽きないから。

質問 大原研二さんから 山崎 恭子さんへ

__ 
前回インタビューさせていただいた、大原研二さんから質問です。「今ドライブに行くなら、どこに行きたいですか?」
山崎 
海に行きたいですね。もうちょっと寒くなってからかな。誰もいねー、って。掘ってみたら何も出てこなかったな、ってやりたい。内陸出身なので海に憧れがあります。長野県。
__ 
長野県には海がない。
山崎 
すっごく昔にはあったみたいです。鯨の骨が出てきたらしいですよ。むかし博物館でみたような、もしかしたら記憶の捏造かも、憧れって怖いですね。

戯曲と脱構築を行き来する

__ 
今後、どんな感じで攻めていかれますか?
山崎 
多分、同じような感じでやっていくと思いますが、戯曲の方が分かりやすいので、そちらに一度戻ってもいいのかなとも思いますし、交互に行き来しながら作品を作ろうかな、と。
__ 
テキストと脱構築を行き来する。
山崎 
戯曲をわざわざ壊すのは、そもそも戯曲や物語にこだわりがない、でも演劇は戯曲を使った方が効率が良い・・・うーん何て答えたらいいのか(笑う)もっとざっくりした質問に買えちゃいますが、過去書かれたテキストを使うのは何故かというと、残っているものはつまり歴史を持っていて、そこを信じている、というのはありますね。絶対に。そう考えると、小説でも戯曲でも構わなくて。

とても美しい石鹸(暗い沖と明るい水内際、そして誰も足跡を付けていない浜辺を閉じ込めたような)

__ 
今日はですね、お話を伺えたお礼にプレゼントがございます。
山崎 
ええっ。いらんいらん。いいんですか。
__ 
もちろんです。
山崎 
開けていいんですか?
__ 
どうぞ。
山崎 
(開ける)あ、ありがとうございます。きれい、海っぽい。
(インタビュー終了)