演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫

野村 眞人

スチューデント

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同じカンパニー
瀬戸 沙門(劇団速度)
同じ職種
京都造形大 舞台芸術学科卒業制作公演(京都造形芸術大学 舞台芸術学科)
山口 淳太・西尾 真由子(ヨーロッパ企画)

劇団速度、そして彼らが見たい景色

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今日はどうぞ、よろしくお願いします。舞台芸術研究会 、そして劇団速度の野村さんにお話を伺います。最近、野村さんはいかがお過ごしでしょうか。
野村 
先週、本番が終わりまして。それが今年の活動おさめでした。劇団速度は今年の3月に旗揚げしたんですが、それからずっと忙しくて。つまり、いい感じだったと思います。
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Juggling Unit ピントクルの主催するショーケース「秘密基地vol.6」 での作品、タイトルは「寝てるあいだに死んじゃったらどうしよう」ですね。残念ながら拝見出来ませんでしたが、どんな作品だったんでしょうか?
野村 
劇団速度は僕を含めて4人で活動しているんですけど、今回初めて別の人に演出をしてもらったんです。別に、僕がしたくなかったわけではなく、劇団速度ってこういうものもやれる、色々な事がやれるみたいなカラーを作りたかったんですね。今回お願いしたのは精華大1回生の陶芸コースの子で、初演出になりました。演劇的なジャグリング作品になったと思います。主催から頂いていたのは「ジャグリング作品」という依頼だったんです。
__ 
というと。
野村 
今回は、「モノを配置する事に主眼を置いたジャグリング作品があるらしい」ということで。そこからアイディアを借りて、それで、「食べ物」を使ったんです。それも普通の用途では使わない。最初は豆腐を落下させて使おうと思ったんですけど、それが問題があって。それは飛び散り方が問題だったんですね。凍らせて水分抜いたり、いろいろ試したんですけど制御ができなくて。ちょっとだけ作品のコンセプトをいじって、お弁当という設定に変えたんです。おにぎりと卵焼きを落下させたんです。
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おにぎりを落下させた時の興奮が手がかりになりそうですね。
野村 
豆腐の場合は落下させたら食べ物じゃなくなるという瞬間があって。おにぎりの場合は落下させたらぐちゃっとはなるんですけど、おにぎりはおにぎりなんです。食べ物というレッテルが剥がれ切らない。食べ物を粗末にするな、みたいな反応をやっぱりいただきましたね。人と切り離されたモノを主体とした時間の中で、そういう影響を受ける人、そうでない人、それぞれどのような反応を示すのか。シュミレーションをした演出を稽古場で試していましたね。面白かったと思います。すごく静かで。密かに進行している劇的な瞬間。落とすモノを変えると、作品の見え方も変わってしまう。そういう意味でも、やっぱりあれはジャグリング作品だったんじゃないかなと思っています。
劇団速度

2016年3月に旗揚げ。代表は野村眞人。演劇を考えるための演劇、その過程が作品化することに特徴がある。また、活動は演劇作品の発表に留まらず、フロアジャグリングの手法を用いたパフォーマンス作品「寝てるあいだに死んじゃったらどうしよう」や、食べ物を食べることを用いて詩の在り処を探るパフォーマンス作品「摂食」など、多岐に渡る。

舞台芸術研究会

2015年4月発足 京都を中心とする舞台系術や伝統芸能の鑑賞及び批評活動を行う。読書会ではこれまでにアントナン・アルトーやジャック・デリダを扱った。実践的な活動として、同年11月にB・シュトラウス原作の「終合唱」を上演。

Juggling Unit ピントクル主催 オムニバス公演『秘密基地vol.6』

公演時期:2016/12/10~11。会場:スタジオヴァリエ。

舞台芸術研究会の発足から

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舞台芸術研究会ではどんなことをしているんですか?
野村 
実は今、事実上は活動停止していまして。まず、最初から話したいんですけど、当初は僕は演劇をやりたい人ではなかったんですよ。演劇を研究テーマとして使いたかったんです。まずは見たかった。でも自分一人で見て感想を持っても蓄積されていかないし、ノートを作って感想を書き連ねていたとしてもやっぱり限界がある。蓄積されたと思っていてもそれが独りよがりであったり、凝り固まったりしていくのも嫌だったし。誰かと一緒に見に行って、感想を語り合うのがいいんじゃないかなと思って。いわば批評活動ですね。演劇を見ることを常態化する、生活に組み込むことで、演劇を見ることを盛り上げたかった。
__ 
そうですね。感想を言い合うと深まりますよね。本当に。
野村 
でも、なかなか定期的に見るとしてもお金がかかりますし、話しただけでは蓄積されない。レポートとかを出してもらおうとしたんですけど、集まりが悪くなったりして。ちょっと尻すぼみになっちゃいましたね。でも面白かったのが、演劇を見る、勉強する団体である舞台芸術研究会で成果発表公演のような位置付けで公演を行うことになったんですが、そうなると人は集まるんですよ。
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そして、劇団速度。
野村 
舞台芸術研究会は演劇を見て演劇論を読んで、受容者としての素地を作り、上演をすることとは別のベクトルで演劇に対して能動的になるための団体でしたが、やっぱり、それだけじゃないだろうと。実践と理論をわけるという意味で劇団速度を作りました。旗揚げ公演として上演したのが、「珈琲店」です。

劇団速度

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「珈琲店」 は面白かったです。
野村 
メイエル・ホリドを研究したくて。彼のレリーフ演劇という手法なんですが、緞帳が降りている状態でちょっとはみ出ている部分のみを舞台として用いる、観客とすごく近く奥行きがゼロとなる、というものなんです。人間が横向きでしゃべるんですが、絵画や彫刻などのモチーフを連想させる演劇をやってみようと思ったんです。戯曲「珈琲店」は、250年前のコメディア・デラルテです。仮面劇なんですが、仮面を使えばレリーフ演劇ができるんじゃないか。横を向けばエジプトの壁画みたいな効果になるんじゃないか、と思って。そういう可能性があるのかなと思って。ただ、物語が吉本新喜劇みたいな内容で、ベネチアのある広場で話は進みます。広場に店を構える店主や従業員たちが、事件が起きてはわらわら出てきておしゃべりする。それをその中の店の一つである珈琲店からの視点でまとめてある。それで、会場である喫茶フィガロを、劇場というよりまさに喫茶店として使ったんですが、稽古の過程で喫茶店という場所が強い意味を持ってきてしまって。最終的には、劇空間と喫茶店空間の二つの中間で葬式をする、みたいな形でまとめたんですね。
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葬式?
劇団速度『珈琲店』

2016年3月10日(木)-3月13日(日) 各回20:00開演 料金:一般2000円 学生1500円 ※珈琲一杯付き 会場:喫茶フィガロ 原作 カルロ・ゴルドーニ 演出 野村眞人 出演(五十音順) 後藤禎稀 城間典子 瀬戸沙門 武内もも 中西みみず(Juggling Unit ピントクル) 南風盛もえ

速度の段階

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劇団速度は、旗揚げから、どのように変わっていきましたか。
野村 
演劇の実践の場として劇団速度を立ち上げたんですけど、それから段階を経て、「演劇を考えるための道具としての演劇をする劇団」になっていきました。それからさらに、道具であり、「表現でもある」、がつけ加わったというのが変化といえば変化です。というのは、2016年の京都学生演劇祭で、森山さんに指摘されたんです。「君は研究者になるのかアーティストになるのかどちらかにしたほうがいいよ」って。今でも、演劇は道具としての捉え方が強いですが、人前で何かする以上、表現になってしまわざるを得ないところに対して責任を持とうと。無責任なことやってたなと思ったんです。僕自身はそういう風に変わりましたね。
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なるほど。
野村 
劇団速度にはいろんなメンバーがいて。アニメを作るために勉強している人や、陶芸を専門的に学んでいる人、ダンサー、シンガーの人もいます。次はダンス作品を上演しようと思っています。個展を開いても面白いのかなと思っています。劇団速度は所属メンバーの活動のプラットフォームとして機能させたい。最終的にすべてが演劇に還元されれば良い。劇団の名を冠してはいますが、でもそれはそういうものだという感じで思ってもらいたいです。

戯曲は必要なのか

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今興味のある領域は何ですか?
野村 
一言で言うと、戯曲は必要なのか問題、です。戯曲を使うことは一般的なんですが、それをちょっと考えたい。僕は戯曲はいらないと思っているんです。戯曲の内容を演出家が解釈し、現代性だとかアクチュアルなものを付け加えて披露するために戯曲は必要ないんじゃないか。と同時に、作と演出を兼ねるということは好ましくないと思っていて。つくづく、戯曲は一要素に過ぎない、縛られてはいけないと思いますね。照明や音響と同じレベルで考えるべきなんじゃないかと。
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それは主体ではないと。
野村 
俳優と観客、それが最重要のコアだと思います。戯曲はなくてもいいものに過ぎないと思っているんですけど。とはいえ、言葉は大事です。セリフ≠戯曲≠言葉というか。それこそ、このあたりは言を尽くして説明しないといけないんですけど。

死ぬということ

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もし好きな超能力が一つ得られるとしたらどうしますか?
野村 
ちょっと超能力とは違うかもしれないですけど、死んでみたい。正確には、死んだ記憶を持ちたい。ですかね。
__ 
死後には何が待ち受けてるんですかね。もしかしたら、意識とか普通に残ってて、で、めっちゃ働かされる。だったらどうします?
野村 
ああ、それ、子供時代の地獄のイメージです。太い柱に付いた歯車をみんなで延々と回すイメージ。
__ 
全ての命が、そっちの世界に送られて、この世界の宇宙の原理を支えるために働かされる、みたいな。
野村 
怖いですね。天国のイメージもあって、それはふかふかの綿あめみたいなソファがあって、床に座って、美女にお酒を注がれて、延々とお酒を飲む。僕はそれも怖いんですよ。
__ 
ああ、嫌ですね。
野村 
さっき死んでみたいと言いましたけど、死んだ記憶を持ちたいだけで、死にたいわけじゃないですよ。絶対死にたくない。最後に生き残る一人でもいいから。
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それまで生きていた自分の環境とか関係とか、そういうものをから全て離され、全然知らん世界に住まわされるのが嫌なんですかね。

質問 中谷 和代さんから 野村 眞人さんへ

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前々回インタビューさせていただいた中谷和代さんから質問を頂いてきております。「ダメだと分かっているけれどついやってしまうことは何ですか。」
野村 
たくさんあるんですけど、携帯灰皿がない時でもタバコを吸ってしまうこと、他にもたくさんあります。本当にたくさんあります。

質問 出田 英人さんから 野村 眞人さんへ

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前回インタビューさせていただいた出田英人さんから質問です。「きっと自分には回ってこない役を教えてください」
野村 
歌って踊れる主人公。
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いつかさせられるかもしれませんけどね。
野村 
まあないでしょうね。

とはいえ生活は続く

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野村さんが上演する時に、観客はどのような存在であってほしいと思いますか?
野村 
まず演劇の成立条件として必要。まず、その場にいてほしいですね。でもその居方に関しては思うところがあります。例えば俳優はその場における自分の居方を考えるけれどもお客さん自身にも自分の居方を考えて欲しい(作品側からその形式を提示してもいいんですけど)。よく演劇を見るお客さんはその居方が固まっているような気がしているんです。それをちょっとをほぐしてほしい。「珈琲店」でも、喫茶店のお客さんとしていて欲しかったんですね。僕の演出手法が色々至らなかったこととかもあったんですけど。
__ 
観客の、劇場における居方。
野村 
劇場に演劇を観に行く。それを特定のありかたに固めないでほしい、と思います。
__ 
それはなぜそう思われるのですか?
野村 
演劇とは非日常であると形容されるじゃないですか。確かに劇場に行くと、周囲から隔離され、暗転すれば闇になるし、なんとなく危険な感じするじゃないですか。劇場はそういう場所であるべきだと思うんですけど、とはいえ生活は続くし、俳優もスタッフも作品の中だけで生きてるわけじゃない。生活は続いてるんですね。演劇は一回性の芸術だと言われますが、それは幻想だと思います。その幻想が演劇の非日常性という一側面を誇大化させていると思います。観客として、確かに全く同じステージは二度と見ることがないと思いますけど、だからこそ生活に根ざして緩やかに作品は続いていく。再生可能な音楽や小説は、再生するたびに違う感想を抱いたりする。それは、作品をその都度自らに引き寄せて受け入れるからです。そういう意味ではむしろ一回性は高いと思う。一方で演劇は生活軸へのより深い接触があるんじゃないか、という気分があるんですよ。
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というと。
野村 
演劇を見ることが非日常豊かな幻想に浸れるものじゃなくて、生活というものとそう変わらないんじゃないか、という気がするんです。その人が生活する時の態度そのままに劇場に来て、巻き込まれてほしい。演劇を見ることにオーソリティなんてないし、演劇を見ることは私にとってこれこれこうだという捉え方をするみたいなことはしないでほしいと思うんです。態度を決めこまないでほしい、というか。
__ 
生活と切り離された演劇がそこにあるというわけではなく、生活と言う時間の中で見た演劇は、個人と不意に衝突する、という事象としてとらえなおすべき、という事でしょうか。
野村 
僕はその先に、演劇の完成された姿を見出そうとしています。生活の終着点は死だと思うんですよ。死んだも同然という文脈ではなく、そのもの肉体的な死。その生活の終着点を劇場にしたい。つまり「葬式」をしたいんですよ。演劇の上演というものが、葬式だといいなと思っているんです。
__ 
それは全てのリアルが行き着く先ですからね。
野村 
とにかく、まずはそれが見たいんです。それで死を理解できるとは思えないんですけど、理解できないものを形式を用いて人間の認識可能な範疇に収めるというのが人間の歴史だと思うんですね。僕は死に最大の興味がある。演劇であれば死を扱い切ることができるんじゃないか。

行動

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傑作について、どのような考えをお持ちですか?
野村 
僕の考える、ありうべき傑作は葬式だと思ってるんですけど、それが存在していない以上は何とも言えなくて。ただ僕が演劇を始めた理由は、ただ漠然と、演劇の二文字があって。それについてつらつらと考えてる日々だったんですけど。ある日何かを見に行ってみようと思って、地点のファッツァーを見たんですよ。衝撃だった。初めて見た演劇がファッツァーだったっていうのも衝撃だと思うんですが、「光のない」も見て僕は演劇をやろうと決めたんですね。誰かに衝撃を与えるだけではなく、物理的に行動させる、それが傑作なんだと思います。それと、傑作は時代を超えると思っていて。僕は以前タデウシュ・カントールと言うポーランドの演出家の作品をビデオで見たことがあるんですけど、それがまさに傑作で。一昨年が生誕100周年で、そのシンポジウムに行ったんですけど、それを映像で見て、めちゃくちゃ良かったんですよ。
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というと?
野村 
演劇がいかにして演劇なのか、という姿を見たんですよ。日本語の字幕がついていたんですけど、セリフから内容の理解はできない、まあできる部分もあるんですけど、理解はそんなに大事ではない。でもわかるんです。俳優も老人を使っていて、(訓練はされているんですけど)目を引く美男美女とか、鍛え上げられた肉体では全然なかった。わけのわからない、異様な空間で。孤独とか音響照明、セリフとか、そういう要素のすべてが同じレベルでならされていてでもそれが全て完全に重要である、不可欠である。その一つ一つが何かの補助ではなく拮抗している状態で、素晴らしいなと思いました。それぞれがセッションをしているわけではない。
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並存して存立しているということ?
野村 
ああ、そうです。バンドのようにセッションしているわけではなくて、それぞれが独立して動いていてある瞬間にバチっとくるような感覚。めちゃくちゃ素晴らしかったです。映像で見ても傑作であることには関係ないのかもしれませんね。もちろん生で見たかったとは思いますけど。

これから

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今後どんな感じで攻めて行かれますか?
野村 
来年は年間を通じて同じチラシを撒き続けようと思っています。来年はいろいろやろうと思うんですよ。演劇のようなこともするしライブペイントもするし、展覧会もするし。だから、そのチラシに興味を持ってもらえたら。早くお目に掛けたいです。
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楽しみです。

ミニ門松

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今日はですねお話を伺えたお礼にプレゼントを持って参りました。よろしければどうぞ。
野村 
ありがとうございます。なんだろう。(開ける)あはは、いいですねこれ。ちょっとこれ悔しいですね。やられた感があります。門松かあ。
(インタビュー終了)