演劇人にインタビュー 頭を下げれば大丈夫

Saku Yanagawa

コメディアン

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Saku’s Comedy Night Final in Osaka

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今日はどうぞ、よろしくお願いします。スタンダップコメディアンのSakuYanagawaにお話を伺います。Sakuさんは最近、どんな感じでしょうか。
Saku 
よろしくお願いします。僕は実は今年中にアメリカの方に完全に移住することになるので、それに向けて国内ツアーの準備をしています。国内での活動と、国外での活動も充実しています。
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素晴らしい。大阪の方でも、3月11日にツアー最初の公演があるということで。とても楽しみです。
Saku’s Comedy Night Final in Osaka

国内最後の"Saku’s Comedy Night"をOsakaで! 舞台の上でマイク一本で繰り広げられるスタンダップコメディに、ひとり芝居。シンプルな舞台に広がる無限の可能性。日本のテレビで観る笑いとはひと味違った味わいと奥行き。そして社会風刺というスパイスを加えてみなさまにお届けします。今の時代、コメディが紡がなければならない言葉を込めて。 コメディというアート、ぜひ劇場でご覧ください。 作・演出・出演 : Saku Yanagawa March 11th (Sun) (1) 2:00 pm- (2) 7;00 pm- 開場はともに30分前となります。 Banquet House 大阪府大阪市北区西天満3-1-13

前夜

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アメリカに移住を決めたきっかけは何ですか。
Saku 
今も行ったり来たりしながらコメディの舞台に立ってるんですけど、僕の一つの大きな目標が、Saturday Night Liveという番組に日本人初のレギュラーとして出演するということなんです。それは野球選手にとってのメジャーリーグへの進出に等しいんですよ。野球で言うなら、メジャーリーグに挑戦するには国内でスーパースターになってから行く、というモデルだったんです。例えば大谷選手や松坂選手みたいに。ですが、コメディの世界ではそれが成り立たない。向こうのマイナーリーグの舞台にコツコツと出て、コメディアンたちのリスペクトを得た人たちだけがメジャーの舞台に立てると。僕も向こうでコツコツと舞台に出演する中でそういう流れを感じたんです。夢を叶えるために行って参ります。
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リスペクトということが重要なんですね。
Saku 
同業者からのリスペクトを得られない人は、何をやってもきっと・・・
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それは本当にそうですね。その目標が見えてきたのはいつ頃からですか?
Saku 
大学からコメディを始めて、大学3回生ぐらいの頃からアメリカで舞台に立ち始めたんですけど、その時に番組を見て衝撃を受けました。トークを主にコントもやる番組なんですけど、日本のそうした番組と決定的に違うのは、政治風刺の笑いや思想を多く含んだ自由な表現が行われている事です。芸術としての番組だということをすごく感じました。それは日本にはないなと思ったんです。後で知ったんですが、僕が小さい時から好きだったジム・キャリーもそうだし、ブルース・ブラザーズもアダム・サンドラーも、映画の中で見ることのできるコメディアンたちもその番組から出てきているんです。いつか僕も出演したいと思ったんです。
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なるほど。
Saku 
やはりコメディアンとして一番基本なのはスタンダップコメディ。自分でネタを書いて、自分で自分を演出して、そして自分一人が主人公として出演する。脚本と演出と主演を全て兼ねる訳ですよ。なので、この3つの技術を兼ね備えなければ一流とみなされない。プロデュースもですね。シンプルなんですけど奥の深い芸能なんですよ。ほぼ全てのコメディアンがこのスタンダップコメディ出身なんですよ。これを極めていった先に、演技をしたりだとか、大きくなっていく可能性があると思うんですね。
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自分で全てを作るんですね。
Saku 
自分の目を通してみた世界を喋ると言う事は、自分にしか描けない世界を書くという事なんですよね。とてもオリジナリティの高い芸術だと私は信じています。これはアメリカでもよく言われていたんですけど、舞台を終えて楽屋に帰ってくると別のコメディアンに「Saku,あのジョークはとても面白かったよ、でもあれって本当にお前が言わなきゃいけないのか」と。「別の誰かが言っても面白いジョークではあるんだ。でも本来、俺たちが突き詰めていかないといけないのは、お前が言うから面白い、お前じゃなきゃ言えないジョークだ」と言われて。最初は「そんなん面白ければいいやんけ」と思ったんですけど、よく考えるとやっぱりそうあるべきなんだなと思い直しました。
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様々な仕事でもそういうところありますよね。誰にやらせても同じ仕事の結果が返ってくることは確かに期待されている。ベテランの技術者二人が同じ製品の何かの設計書を作るとして、それぞれのアウトプットはそれぞれ違う。完璧な事はもちろんだし、要件は満たしている。で、何が違うか?というとそれは「味」だけの問題ではない。確実に、それぞれの技術者の人格や思想、大切にしているものや背負っているものが反映されている。実際はそれこそが、仕事の本質的な意味での重い部分と言えるし、お客さんが期待しているものであると言えるのではないでしょうか。
Saku 
それがやっぱりやりがいにつながるのかなと思います。

シンプルなこと

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向こうに渡って楽しみにしていることは何ですか?
Saku 
シンプルですが、それぞれバックグラウンドの違う・文化や言語の違う人達を身一つで笑わせるのが何よりも楽しみです。達成感もものすごく大きいですし。

ジョークの種類

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Sakuさんは人種ジョークというものも扱われているようですね。人種ジョークというものはもちろん、社会的な場面では基本的には許されていませんが、それが許されている空間であれば非常に有効に作用する、周囲の和を生む、その人種がいる空間でさえうまく作用することがあったりすると聞いた事があります。資料として頂いた動画で、アジア各国での人々の喋り方の違いであるとか、それのモノマネがすごく面白かったし、会場のお客さんにとても受けていた。そこで伺いたいのですが、「人種ジョーク」については、例えばどういう部分で意識的ですか?
Saku 
はい。まず第一に、アメリカという国においての話を言わせていただけるのであれば、アメリカというのは移民が集まってできた国であるという事です。日々の会話の中で、自分の人生であるとか宗教であるとか、ジェンダーは最近ですけど、そういう目に見えるものを半ば自虐的に喋ったり、例えば相手の人種にジョークを入れることで、お互いに「自分は敵ではないですよ」と表現しているんです。人種ジョークは日々のキャッチボールとして使われてきたという背景があり、他者を批判しない限り許されている風潮があります。その上で、コメディの成り立ちから言うと、虐げられていた人種の人達による叫びから生み出された芸術であると、ある程度は言っていいと思うんですね。黒人のコメディアン、ユダヤ人のコメディアンがメインストリームになっていったように、そもそもが彼らの声を笑いというフィルターで消化したというものがコメディの成り立ちであると僕は理解しています。
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コメディの成り立ち?
Saku 
まず、日本のお笑いとアメリカと笑いがどのように違うのか。一つ目は「日本の、テレビで見ることができるお笑いは、ほぼすべて生活に根ざしたものである」という事。例えばコンビニに行ったらこんなことがあったとか、嫁にこんなこと言われたであるとかの「あるあるネタ」。なぜこれが成立するかというと、少ない人種がほぼ同じ文化に根ざした生活を共有しているので、それが共有項になるからなんですよ。けれどアメリカの文化は様々で、誰もも同じ生活を送ってるわけではない。だから生活だけがネタにはなりえない。だからこそ色々なジョークにジャンルがあるんですね。人種、科学、思想、文化、政治や宗教。
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あるあるネタは前提を必要とする、と。
Saku 
もう一つ述べさせていただくと、風刺という精神があるんです。「刺す」という字が入っているように、ナイフだと思ってください。アメリカというのは対立軸がすごくはっきりしている社会です。白人・黒人・ラティーノ・エイジアン、またはクリスチャンとムスリムとジューイッシュ。これらを風刺というナイフでグサっと刺すから、両者の間にミゾが生まれて、これが笑いになる。ただ日本という国はまだゆるっとした村社会なので、ナイフを刺そうとしてもぐにゃっと、途中で曲がってしまう。
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その中でも日本人であるSakuがアジア人風刺をやるとですね、なんだかまるで観客の気持ちが伝わるような気がするんですよ。「日本人とも中国人とも判然としない男が一体何をやっているんだろう」、そういう可笑しみがある。
Saku 
僕自身も、海外に出て初めて「自分がアジア人である」と、より認識しました。日本の人というのは、どちらかと言うと「日本人」であるという自認が強くて。アジア人という枠組みの中で自分を捉えない。それが向こうへ出て、他者からのそうした視線を受けて自分がアジア人だと思われているんだ、と気付く。それをジョークに昇華しようと思い立ったのが、初めてアメリカで舞台に立った時の事です。

笑いの共通項

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いつか、どんなショーがしたいですか?
Saku 
海外では、僕は正直、世界で通じる笑い、つまり風刺があり思想があり、というカテゴリがあるとしたら、日本のお笑い文化(フリとオチの構成や、生活描写をこと細かに表現するといった)は、必ず共通項があると思うんですよ。その中の最大値は、きっと歩けると思うんです。日本人が慣れ親しんだ笑いを、海外用にアレンジすることは可能だと信じています。それを紡ぐということは非常にやってみたいと思います。
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それは、日本の笑いを翻訳するということですか?
Saku 
いえ、多分、翻訳というよりは作り変えた方がいいと思います。一対一の翻訳をしてもウケないなと肌で思っています。というよりもむしろ、日本のものをアメリカナイズドし、アメリカのものをジャパナイズドした果てにあるものだと思っていて。例えばですけどシチュエーションコメディを作るとなったら、そのシチュエーションの中で何をどう創れるか。セリフの部分だけではなく、自然や動作、プロットだけではない部分に拘って行くと必ず作れるものがあると思っています。3月11日に一人芝居として上演するのは、そうした公約数をある程度狙った作品になります。
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ありがとうございます。そうした実験のその時点での答えが観れれば、とても嬉しいです。

ドライビング

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ちょっと最近考えてることがあるんですけど、人間って、反応には嘘をつけないじゃないですか。もちろん、準備する暇があれば、検討を経た反応を返すことはできるんですよ。でも、どうしても検討する時間が入る余地なく引き出された反応というものに、観客の本質は現れるのではないか。うまくドライビングされている演劇の観客は、反応を検討する余地のない状況に追い込まれてるのではないかと思う。ちょっと逆説的だけれども、そうした状況下にある観客席の身体を「観客」と呼びたい。
Saku 
はい。
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演者としては、レバーを何とかして握りたいですよね。そのイニシアティブの奪い合いは、コンテンツそのものとは多少離れた様々な領域で為されているのではないかと思う。もちろん、大部分は重なっているけれども。そしてスタンダップコメディでは、役柄を介さないコメディアンと、まだ観客になることを決めていない聴衆の間で、とても濃密なやり取りが交わされているのではないでしょうか。
Saku 
まず、アメリカに渡って一番感じたのは、「どこでみんなが笑わなきゃいけないのか」というものが、日本における漫才や落語に比べて、無いな、と思ったんです。一般的に、日本のお客さんは、皆さんが同じタイミングで笑うということを良しとしている。
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おお。なるほど、そうですね。
Saku 
だからこそ、ツッコミという役割がいる訳です。ボケというある種異常な人を、お客さんと同じ目線のツッコミという役割が糺す訳ですよ。「あつがなついでんな」「いや、逆やろがい」と。そのボケが面白い面白くないにかかわらず、「そこが笑いどころですよ」というサインをあげているんです。ツッコミというのはそういう役割を果たす上で日本の劇場には不可欠だと思うんですね。みんなで一緒に笑いたい、それは僕が日本の観客席にいるときもそう思っていますので。ただ、アメリカの方では「俺このギャグ分かんねんで」「俺このジョークは分かって笑えてんねんで」あくまで笑いに来ているので、一人で笑うお客様も大勢いらっしゃるんです。より、お客さんと対峙してると言うか。だから笑うべきところではちゃんと笑ってくれるし、逆に滑る時には、舞台の上に議論しに上がってきた人もいるし、ビール瓶を投げてきたおっちゃんもいましたし。
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という事は、アメリカではレバーは観客それぞれが多めに握っているという事なのかな。
Saku 
なおかつ、鉄板ジョークも滑ることがある。そういう時、(僕はレスキュージョークと呼んでるんですけど)「ごめんねこれは新しいジョークなんだけど、二度と言わないことに決めたよ、教えてくれてありがとう」。
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(笑う)
Saku 
さらにもう2、3回滑ってしまった時は「僕は今までに2000本以上ショーに出てきたけれども、今日ほどウケた日は無かったよ」と。
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素晴らしい。そうだ、前回インタビューさせていただいた90年会の大牧ぽるんが、滑った時にどうあるべきなのかを言ってたんです。彼女には嫌な思い出があって、滑った時あまりに怖くなってその次のネタを飛ばした事があるそうです。
Saku 
はいはいはい。
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そうじゃなく、もし滑ったとしてもそのまま滑るべきだ、と。エネルギーを出しつくさないと失礼だし、覚えてももらえないと。滑るということに対してどういうスタンスを持つかということはとても重要だなと思う。
Saku 
僕はもう、滑ると放心状態になってしまう。基本的なお客さんは時間とお金とソウルを捧げてきているんですよ。その人の前で滑るということは、その人を不幸にしてるということなので。そういう日は家に帰って一人でぼーっとしてることが多いです。その上でエネルギーを落とさないというのはとても大切だなと思います。
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アメリカでも滑るんだな。
Saku 
滑る時には本当に滑ります。でも、どういう状況が待ち受けていそうでも、舞台に立つんですよ。深夜のショーにあてがわれて、お客さんは二人しかいなくて、そのうち一人は泥酔して寝てるとか。もう一人の方をウケさせることだけがその時の僕の目的でした。多分、その人は僕のことを一生忘れないと思うんですよ。
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おお。
Saku 
一万人の前でやったこともありますが、毎回同じです。出番の前は緊張で吐きそうになります。ただ、大事だと思うのは、人生は諦めと挽回力だと思うんです。僕は高校生まで野球をやっていて、自分で言うのはアレですけど、チームの中心で、試合にも一番出させてもらってたんですよ。大学でもやろうと思っていたんですけど、ピッチャーでライバルだったやつが東大に現役合格したんですよ。ほんで僕は浪人してしまった。野球ができない中で、ライバルのやつが一年生からバンバン活躍しだして。周りで「朔の代だ」と言っていた人達が、段々とそいつの代だ、と言い始めて。当時の十代の僕にはきつかったんですよ。でもそいつに負けたくはないから一生懸命勉強して阪大に入った、と。でもいくら頑張っても六大学でバンバンやってるそいつに勝てないと思って。それで野球を諦めて、そして演技を始めました。負けたくなかったので。挽回ですね。大げさにいうとそいつのせいで野球を辞めたんです、というかあきらめられることができた。彼もそのまま放送局で報道をやっていたんですが、何かやりたいことと違うなぁと感じていた時に、僕のケニアの映像を観たらしく、やりたいことをしている僕のせいで放送局を辞めた。こっからすごい挽回がきっとあると僕は思っています。人生は挫折と挽回なんですよね。ジョークも滑る時はあるんですよ。でもそういう時に、どう挽回していくかというところは、人生と似てるなと思います。
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ちょっと話は変わりますが、滑った時にお客さんの中で何が起きているんだろう。考えたことはありますか。
Saku 
面白い時はお客さんは必ず笑うんですよ。面白くない時は笑うべきではないと僕は思います。つまり、滑った時というのは一番わかりやすく、面白くないんです。実力不足です。コメディというのはその点でとてもわかりやすいですよね。お互いの目的がここまで明確な芸能は他にないと思うんですよ。コメディアンは笑かしに行く、お客さんは笑いに来ている。なのでお客さんというのはショーを見ながらにして、第三者としてそのショーの出来を判断することができるんですよ。極論、どれだけいい事を言おうが、どれだけお客さんが入っていようが、お客さんが笑っていなかったらその公演は失敗なんですよ。極論ですが、野球もちょっと似ていて、体を鍛えた男たちが棒を振り回すわけですからまぐれでヒットになることぐらいありますよ。でも、受けを取り続けてるやつ、ヒットを打ち続けているやつににまぐれの人は一人もいないです。

質問 90年会の皆さんから Saku Yanagawaさんへ

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前回インタビューさせていただいた90年会の面々から質問を頂いてきております。「同世代に言いたいことは何ですか?」
Saku 
僕はそんなに偉そうなことは言えないですけど、好きなことを好きなだけ、出来るまでやってもいいのかなと思います。なぜそれを同世代の方にいたいと、僕は25歳なんですけど、これからの人生を色々考える時期だと思うんですよ。僕にとっては、好きなことをやり続けるのが、少なくとも自分への誠意だと思うんですよ。極端な話、ミスをしてめちゃくちゃになったとしてもまだ絶対に取り返しが効きます。ミスをしたら、それが出来なかったということは分かる。それがわからない状態で何も動かないよりは動くべきだと思います。それぐらいしか言えないですけど。
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それは本当にそうですね。

表現するということ

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Sakuさんはなぜ、表現をされたいと思うのですか?
Saku 
自分の目で見た世界が作品になって、誰かに影響を与えるでも与えないでもいいですけど、世に出るということは何ものにも代えがたいことなのかなと思うからです。
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自分の作品。
Saku 
それを誰かが見てくれて、作品として昇華した時は素晴らしいと思いますね。少し大きなことを言うと、それが自分の生きている意味だと思うんです。僕の目線でしか見えないものにしたいなと思います。今まで進んできた道が生んだ内面から出てきた、含蓄のあるショーがしたいなと思います。
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感情移入じゃないけど、私は観客として作品を自分の人生と共有したいです。そういう観客術だと思う。けれども、今お話になっている作品のあり方は、個人とは別個のものとして扱って欲しいみたいな、そういう印象を受けます。
Saku 
おっしゃってることは間違ってないと思います。
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そして、笑いというものが絶対的な指標であるということは、私にとっては結構新鮮です。笑いを任意にコントロールする観客はたくさんいると思うから。
Saku 
そうですね、だからこそ空間を制圧しなければ笑いは作れないので。笑いを常に一人で作り続ける人は天才です。一方で、Likeableという英語があるんですけど、意味としては「好かれうる」という。そういう人は出てきた時点でお客さんの心を掴んでるんですね。この人応援したいな、気になるな、みたいな。興味を持ってもらえる人って、その人の内面からにじみ出ているものが強いと思うんですよ。
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日本語でそれは愛嬌と呼ばれているものです。
Saku 
そうですね、でもとても無愛想な人でもなんだか憎めない人もいるじゃないですか。それってやっぱり、何から出る何かなんじゃないかなと思うんです。しょうもない奴なのになぜか、人が逃げていかないという人もいる。
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なんなんでしょうね。やっぱりその人が何を見てどう反応しているか、みたいなのが直結しているのかもしれない。

小鉢の料理大全

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今日はですね、お話を伺えたお礼にプレゼントを持って参りました。
Saku 
え、そんなそんな。
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どうぞ。
Saku 
結構、重みのある・・・(開ける)おお。これもう僕、本当に料理大好きなんですけど。今まさに小鉢を極めたいと思ってたところなので。これを作れるようになったら一人前ですね。
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もし誰かが遊びに来た時にそういう本があったらまあ盛り上がるんじゃないかと。それと、小鉢料理というのはカテゴリーとしては全く存在感がないにも関わらず、それ一つ一つが確固とした存在感を持ち、しかしコースに組み込まれることが前提のものだと思うんですよ。舞台に立つ者として、「ネタ」に対する意識や姿勢を持ち続けて頂ければ、という思いがこもっています。
Saku 
振れ幅も凄いですし、ルールもあってないようなものですからね。人はそれを美味しいか美味しくないかだけで判断するという。本当に彼らはスタンダップコメディアンですよ。
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オリジナリティもあって、独自のルールがあり、破調も内包し、そしてすぐ消える。
Saku 
エスニシティも武器になりますし。小鉢は芸術ですね、ホンマに。
(インタビュー終了)